↑ 上3枚の写真は、1981年9月6日三沢基地で撮影された第3飛行隊のF-1の列線。赤い尾翼は同隊のT-2であるが、マークが黄色いのは第8飛行隊所属である。渡辺師匠が撮影された作品である。1981年は1月にレーガン大統領が就任し、アメリカ軍は大幅な軍事拡大に向けて動き出した時機。私は、この年に会社からの命令で8月から台湾に赴任、2年程の駐在生活が始まっていたので 1981年~1982年は国内航空撮影の空白期であった。
3rd Squadron
1982年は、6月のACMの開催前に、アメリカ本国のホロマン空軍基地から、三沢基地にF-15Aが6機飛来して、3SqともDACTを展開している。胴体下の白いポッドは、GBLS-200 訓練用ディスペンサー。
Pege-3
F-1飛行隊は、1981年(昭和56年)2月に築城基地に第6飛行隊が3番目の飛行隊として運用を開始し、18機編成の3個戦闘爆撃機部隊が揃った事になる。同年最後のF-4EJ部隊である306Sqが小松基地に新編され、ファントム飛行隊も6個飛行隊が揃った事になった。当初の防衛計画に306Sqの新編の予定は無かったが、F-15の選定が遅れた為にF-104Jの減耗に追い付かなくなったためであるとされる。1981年F-1戦闘機3個飛行隊全部隊が揃って81年の航空総隊の戦技競技会(ACM)に参加しており、第3飛行隊はF-1部門で優勝している。三沢基地は下段も記述したが、1981~82年とアメリカ本国のF-15部隊等との日米共同訓練が多かった。
↑ 1982年6月8日 渡辺師匠が撮影された小松基地でのF-1のタキシングの様子。渡辺さんは恐らくこの時期に小松基地にて開催された戦技競技会で、お目当てのF-4EJの戦競マーキングを撮りに行かれて、同時に撮影された戦競参加機のF-1。しかも、競技の為にCBLS-200訓練用ディスペンサーを装着した写真で羨ましい限りである。この赤い第3飛行隊のマークもこの年で見納めとなった。
↑ 資料によれば、F-4EJ部門の競技では、翌年の1983年から爆装したF-1は仮想敵機部隊を演じ、F-4EJ部隊はこれを迎撃する事でポイントを争ったそうであるから F-1のパイロット達の役割は大変多いことになる。。
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↑ 上の一連の写真8枚は、全て渡辺明氏による撮影のもので、撮影地は1982年6月の小松基地。82年まで2年連続でF-1部門優勝を飾った3Sqであったが、翌年1983年は優勝を8Sqに譲り、V-3はならなかった。
↑ 1981年3月に三沢基地で、米海兵隊のF-4SとF-1部隊との日米合同訓練が開催され、3月11日に8Sqも全てF-1に交換が済んで、第8航空団はF-1戦闘機で完結、翌4月にはフロリダ州エグリン空軍基地からF-15Cの部隊が三沢に飛来、F-1/F-4EJ/F-104等と合同演習を行うなど、F-1部隊にとっても忙しい年であった。